
2010年07月25日
浄妙山の御神体の写真 京都祇園祭
浄妙山じょうみょうやまは、
平家物語の橋合戦に由来する山で、源氏方で、三井寺の僧兵、筒井浄妙 (これまた、お名前の山でしたか。)が、
奮戦していたところを、
一来法師が、浄妙の頭上を飛び越え、
戦陣をきってしまった場面の、
筒井浄妙と一来法師が御神体です。
こちらの御神体は、京町屋ではなく、ビルの1階に飾られている。
古い京町屋に置かれている御神体は、建物と調和して、
重厚感が倍増する。ビルの1階では、呉服屋の展示のような印象を受けてしまう。
京町屋のような、古い木の色などなく、
きっと明るすぎるのと、天井が高すぎるからだろうな。

平家物語の橋合戦に由来する山で、源氏方で、三井寺の僧兵、筒井浄妙 (これまた、お名前の山でしたか。)が、
奮戦していたところを、
一来法師が、浄妙の頭上を飛び越え、
戦陣をきってしまった場面の、
筒井浄妙と一来法師が御神体です。
重厚感が倍増する。ビルの1階では、呉服屋の展示のような印象を受けてしまう。
京町屋のような、古い木の色などなく、
きっと明るすぎるのと、天井が高すぎるからだろうな。

2010年07月24日
綾傘鉾の掛け軸の絵と怖いお面 京都祇園祭
今日は花傘巡行の日だ。昔、昭和40年頃まで、祇園祭の山鉾巡行は17日と24日に分けて、先の祭り、後の祭りと
2回あったんだって。
今日の、花傘巡行は、その後の祭りのなのこりだってさ。
年寄りが言ってたし、確かにそう書いてあるわ。
写真は綾傘鉾の祀ってあった、掛け軸とお面

京都 祇園祭 花傘巡行
2回あったんだって。
今日の、花傘巡行は、その後の祭りのなのこりだってさ。
年寄りが言ってたし、確かにそう書いてあるわ。

北観音山の横の家 京都祇園祭り
お祭りの時だけ、通りから、屏風などが見えるように公開されている。順和風の家、中庭が見えて、日本人のセンスの良さに
感動してしまうくらいだ。こんな家に住みたいなぁ、、、。

京都 祇園祭 北観音山
感動してしまうくらいだ。こんな家に住みたいなぁ、、、。

2010年07月23日
白楽天山の説明の木の写真と、道林禅師と京都祇園祭の関係
白楽天山はくらくてんやまの説明は何て書いてあるのだろう。
唐の詩人白楽天が、道林禅師に仏法の大意を問うところをあらわしている。
道林禅師は、緞子衣(どんすえ)の紫衣(もえ)を着け、藍色羅紗(あいいろらしゃ)の帽子をかぶり、
手に数珠と払子(ほっす)を持ち、松の上に座し、
白楽天は、唐織白地狩衣の衣装に唐冠をかぶり杓を持ってたっている。
ふーっ。
そこで少しだけ調べてみましたが、白楽天=白居易。 白居易(はく きょい、772年- 846年)は、中唐の詩人。
字は楽天。白居易は仏教徒としても著名であり、禅僧と交流があった。
『景徳傳燈録』巻4では、人口に膾炙している牛頭宗の鳥窠道林(741年 - 824年)との『七仏通誡偈』に関する問答が見られる。
但し、道林との有名な問答は、後世に仮託されたものであり、史実としては認められていない。
あっ、祇園祭との関係があったよ。
白楽天の白居易の方じゃなくて、道林禅師が、牛頭宗ってある。
牛頭=牛頭天王=祇園さん、、でしょ。
でも、、道林との有名な問答ってどんなのだろね?今度調べておきます。

道林禅師は、緞子衣(どんすえ)の紫衣(もえ)を着け、藍色羅紗(あいいろらしゃ)の帽子をかぶり、
手に数珠と払子(ほっす)を持ち、松の上に座し、
白楽天は、唐織白地狩衣の衣装に唐冠をかぶり杓を持ってたっている。
字は楽天。白居易は仏教徒としても著名であり、禅僧と交流があった。
『景徳傳燈録』巻4では、人口に膾炙している牛頭宗の鳥窠道林(741年 - 824年)との『七仏通誡偈』に関する問答が見られる。
但し、道林との有名な問答は、後世に仮託されたものであり、史実としては認められていない。
白楽天の白居易の方じゃなくて、道林禅師が、牛頭宗ってある。
牛頭=牛頭天王=祇園さん、、でしょ。

黒主山が祇園祭にあるのはどうして?
黒主山くろぬしやまは
大伴黒主を祀り、
謡曲 志賀を題材にしている。
京都 祇園祭 黒主山
大伴黒主を祀り、
謡曲 志賀を題材にしている。
といわれても、大伴黒主も知らないし、謡曲志賀も内容を全然知らないので、調べてみたのは以下。
黒主の経歴は、近江国滋賀郡大友郷の人。貞観年間、園城寺神祀別当となる。鴨長明『無名抄』に没後近江国志賀郡に祭られたとの記事がある。六歌仙の一人で、平安時代の歌人だけれど、生没年不詳。
(「宝生の能」平成13年3月号より)謡曲 志賀のお話はーー。
時の帝に仕える臣下が、江州志賀に今を盛りの山桜を見に行きます。そこへ、重い薪に花を折り添えた老若二人のきこりが現れて花の木陰で休むので、それは花見のためか、又は薪が重いからか、と臣下は老人に尋ねます。すると老人は、大伴黒主の歌を引いて薪に花を添えたわけを話し、花陰に休むことは卑しい身に不似合いだけれど、黒主を偲んでのことだから許してほしいと言います。そして、延喜の聖代には歌道が盛んであったことと共に歌の徳を讃え、自分はもとは黒主と呼ばれていたが、今では山の神と人は見ていると言い、夕雲に隠れ志賀の宮へ帰って行きます。土地の者から志賀明神のいわれや志賀の山桜についてさらにくわしく聞いた臣下が、その夜桜の木陰で臥していると、歌舞の音がして黒主の霊が志賀明神の姿となって現れ、春を喜び聖代を祝い、神楽の舞を舞います。
じゃぁ、どうして、大伴黒主が、京都祇園祭の山になっているのよ?を 勝手に私が推測するに、昔、京都中京の中心で商業を活性化させたのは近江衆、近江商人だったなんてのを読んだことがある。そのあたりからきているのでしょうか?
春さめのふるは涙か桜花散るを惜しまぬ人しなければ時の帝に仕える臣下が、江州志賀に今を盛りの山桜を見に行きます。そこへ、重い薪に花を折り添えた老若二人のきこりが現れて花の木陰で休むので、それは花見のためか、又は薪が重いからか、と臣下は老人に尋ねます。すると老人は、大伴黒主の歌を引いて薪に花を添えたわけを話し、花陰に休むことは卑しい身に不似合いだけれど、黒主を偲んでのことだから許してほしいと言います。そして、延喜の聖代には歌道が盛んであったことと共に歌の徳を讃え、自分はもとは黒主と呼ばれていたが、今では山の神と人は見ていると言い、夕雲に隠れ志賀の宮へ帰って行きます。土地の者から志賀明神のいわれや志賀の山桜についてさらにくわしく聞いた臣下が、その夜桜の木陰で臥していると、歌舞の音がして黒主の霊が志賀明神の姿となって現れ、春を喜び聖代を祝い、神楽の舞を舞います。

2010年07月22日
孟宗山の御神体・写真 京都祇園祭
孟宗山 もうそうやま の御神体の 孟宗。親孝行の山でした。
それで、他の山のような、若干怖いという印象は
少なく感じました。(私、もともと特別に人形苦手なんですけどね)
妄想の山ならあんたの山だとご主人に言われた友達と、
兄弟から妄想壁があると言われた自分といっしょに行きましたが、
当人たち、全然妄想だなんて思ってないのだけれど、、。
孟宗、妄想は=もうそう=で読み方が同じ。何かかけてるんでしょうか?
ありえねーってやつ?
ファンタジックな人の守り神、孟宗山、ちがうかなぁ?

京都 祇園祭
それで、他の山のような、若干怖いという印象は
少なく感じました。(私、もともと特別に人形苦手なんですけどね)
兄弟から妄想壁があると言われた自分といっしょに行きましたが、
当人たち、全然妄想だなんて思ってないのだけれど、、。
ありえねーってやつ?

2010年07月21日
岩戸山いわとやまの山 京都祇園祭
岩戸山は天の岩戸を開いて、天照大神(あまてらすおおみかみ)の
出現される神話に取材した山。
室町時代の狩野永徳画の、洛中洛外図屏風で、
すでに岩戸山は、車輪のついた曳山(ひきやま)
として、かかれている。
立派な山なんだ。
天照大神だからな。祇園さんが、牛頭天皇、スサノオの尊神を祀っているから、
兄弟の、月読尊の、月鉾と、天照の岩戸山と立派になるのだろうかな。

出現される神話に取材した山。
すでに岩戸山は、車輪のついた曳山(ひきやま)
として、かかれている。
天照大神だからな。祇園さんが、牛頭天皇、スサノオの尊神を祀っているから、
兄弟の、月読尊の、月鉾と、天照の岩戸山と立派になるのだろうかな。

2010年07月20日
八幡山はちまんやま 京都祇園祭り
八幡山の山の上の小祠は、総金箔の美麗なもので、天保年間1781ー1788のものと伝えられる。
八幡宮は、もともと下京にあったものを東山五条に遷る時、分祠されたと伝わる。
今の東山五条の若宮八幡さんは、八月の陶器祭りの祭神で、陶器と、美人の神様になっています。
この八幡山は、川崎家住宅<紫織庵>のとこにあります。
川崎家住宅は、お祭りの時、有料ですがみせていただくことができます。

川崎家住宅は、お祭りの時、有料ですがみせていただくことができます。
2010年07月19日
四条傘鉾の踊りとお囃子 祇園祭り

宵々山の、ほこてん、お囃子の時に遭遇した。
お囃子に参加する小学生などは、
ずっと前から練習にいそしんで、
地域で参加できる行事があるというのはいいものだと
いう話を友人としていました。
京都 祇園祭 四条傘鉾